人物総覧 お 教育家 三菱商業学校 

名前 奥田抱生
よみ おくだほうせい
生年 文政八年十月十日(一八二五)
没年 昭和九年三月一一日(一九三四)
場所 名古屋市千種区、東京都新宿区
分類 明治〜昭和初期の教育家
略歴

 文教家。名は一夫、字は式斎、別に主客説詩堂・飯沙山農・紫燕棲主人・百朋斎など多くの号がある。大観の子で万延元年の生まれ、明倫堂に入り、愛知英字校に学ぶ、明治一三年上京して三菱商業学校で漢字・簿記・算術を修める。しばらく官にあったが、病のため退き帰郷して魚貝採集や書画骨董の収集につとめた。父大観と上長者町に大観塾をおこして、漢詩漢文を教え、また小林町に移って名古屋商業の教員となる。明治三六年曹洞宗第三中学校で漢文を教える。のち上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究につとめ、好古学の先駆者となった。著に今瓦譜・百明斎今瓦・日本金石年表・明清書画名家年表・詩苑菁華・燕老随筆などがある。
 墓碑銘は「奥田大観先生」。合葬墓。
奥田家墓所(名古屋市)
奥田抱生の墓(名古屋市)

奥田抱生の墓(東京都)
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
奥田大観 明治時代の儒家、奥田桐園養子 名古屋市千種区
山口洪崖 門下 明治期〜昭和初期の教師、地方自治功労者 情報求む


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。

三菱商船学校跡 東京都中央区
  新川1
 明治8年、三菱の岩崎弥太郎がこの地に社船を繋留して三菱会社商船学校を開設、ついで校舎を建設して三菱商船学校と改称しています。
 三菱商船学校は明治15年に官立東京商船学校となる。現在の東京商船大学はその後身です。