人物総覧 お 尾張藩

名前 奥村得義
よみ おくむらのりよし
生年 寛政五年(一七九三)
没年 文久二年七月二十五日(一八六二)
場所 名古屋市昭和区
分類 尾張藩士
略歴

 祖父の代から尾張藩に仕える。父は奥村仁兵衛為綱。母は美濃光明寺村の百姓小鳥氏の女元。諱ははじめ正房、のちに徳義、安政五年七月には新藩主茂徳の諱を避けて得義と改めた。通称は定兵衛、号は松涛。文化2年(1805)、13歳で普請方物書見習に出仕。文化9年、父為綱の死により家督相続し、切米七石二人扶持。文化11年、普請奉行手付吟味方本役となり二石加増。文政元年(1818)、掃除中間頭並、文政6年本役となり一石加増。掃除中間頭本役となったころから、勤務する名古屋城についての記録が少ないことを憂い、古記録古文書などの収集を開始、しかし費用が続かなかったため、文政9年上司の許可を得て、帰宅後に習字塾を開いた。安政5年(1858)、三十年以上かけて大作「金城温古録」六十数巻全二十二冊が完成。この間に得義の収集した古記録、古文書も膨大な量に及び、約七十冊をこえる「国秘録」や、「松涛棹筆」八十五冊などとして残されている。文久2年(1862)、尾張藩では上洛する将軍家茂の名古屋城への宿泊をひかえ、幕府老職らの質問に備えて、すでに病床にあった得義のもとへ、連日尋問の使が送られた。重態にもかかわらず、記憶は衰えず整然と答えたといわれ、数日後の七月二十五日に死去。法名は純和院得義子達居士。辞世は「なかなかにけふのひと日も暮れぬらんやまは夕日の入相のかね」。妻の喜佐は杉山重右衛門の女。二男五女をもうけるがすべて早世、大宮平助の3男友次郎を養子とし、家督を継がせている。(三百藩家臣人名事典など)
 墓碑銘は「奥村得義墓」


奥村家墓所

奥村得義の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川茂徳 主君 江戸時代後期の大名(美濃高須藩 松平家11代、尾張藩15代藩主、一橋家10代) 愛知県瀬戸市
東京都台東区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
奥村得義碑 愛知県名古屋市
 中区本丸1
 名古屋城に関する記録をまとめた「金城温古録」の著者として知られる奥村得義を顕彰する碑。
 平成16年1月に建てられたみたい。