名前 |
長谷川敬 |
よみ |
はせがわけい |
生年 |
文化五年一月十三日(一八〇八) |
没年 |
明治十九年一月三十日(一八八六) |
場所 |
愛知県名古屋市昭和区 |
分類 |
尾張藩勘定奉行 |
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略歴 |
尾張藩士。字は子文、諱は敬、号を拙斎または是風。尾張の支藩美濃高須藩士の子に生まれ、藩校日進堂に学ぶ。学問を好み、神童と称されたと『名古屋市史』にある。天保五年、選ばれて世子秀之助(のちに尾張藩主徳川慶勝)の侍講となる。嘉永二年、慶勝の宗藩相続に従って尾張藩に入り、田宮篤輝(如雲)らとともに、慶勝側近として徹底した倹約政策をとっての財政建て直し等、一連の改革に参画。安政五年、不時登城事件を直接原因とする慶勝の隠居・謹慎が命ぜられるや、連座して高須に追われ、禁錮に処せられる。文久二年、慶勝の幽閉が解除されるとともに宗藩に復帰。文久三年には慶勝に従って上京し、公武合体運動の中心にあった慶勝の命を受け、もっぱら公卿・諸侯の間を周旋に奔走する。また元治元年、慶勝が長州征討総督に任ぜられるや、広島におもむき、和議の斡旋に尽力したが、本来、攘夷論者であった慶勝と、征長戦争を機会に幕府の権成を一挙に回復しようとする幕閣とは意見が対立し、長州再征が企てられることとなる。慶応二年九月、用人並を命ぜられ、勘定奉行・勝手勘定奉行を兼務。名古屋日置に徒刑場を設置。明治元年三月に職を辞し、以来文武をもって子弟を薫陶すると『名古屋市史』にある。明治十九年没。享年七十九歳。
墓碑銘は「拙斎長谷川敬之墓」。碑文あり。墓は最近修復したばかりだそうです。
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長谷川敬墓所 |

長谷川敬の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
茜部相嘉 |
親交 |
江戸時代後期の尾張藩士 |
名古屋市中村区 |
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尾崎忠征 |
同志 |
幕末の尾張藩士 |
京都市左京区 |
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沢田庫之進 |
同志 |
幕末の尾張藩士、慶勝の側近 |
名古屋市千種区 沢田家之墓に合葬か? |
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田中不二麿 |
同志 |
幕末の尾張藩士
維新後政治家、フランス公使、子爵 |
東京都あきる野市 |
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田宮如雲 |
同志 |
江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 |
名古屋市昭和区 |
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徳川慶勝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 |
愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓 |
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中村修 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後初代名古屋市長 |
名古屋市昭和区 |
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丹羽賢 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後三重県権令、従五位、花南。森春濤四天王 |
東京都台東区 |
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