名前 |
和田東蔵 |
よみ |
わだとうぞう |
生年 |
文政九年(一八二六)
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没年 |
明治三十八年二月二十日(一九〇五) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・史家 |
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略歴 |
庄内藩士和田又蔵光昭の三男。母は片岡氏。幼名を喜三郎、後に東弥と名乗る。実名を行信、字を敬甫といった。天保11年(1840)叔父で儒者の和田東蔵(黎)の養子となる。弘化4年(1847)、8代藩主忠器11男忠意の槍術稽古の相手をつとめる。嘉永6年(1853)家督を継ぐ。忠意の御付小姓を経て、安政6年忠意が村山郡長瀞藩主米津家(一万一千石)へ入嗣の際、これに従い、長瀞藩の近習目付となり小納戸役を兼ねた。この頃、田宮流居合を学ぶ。慶応元年(1865)新徴組取締役に任ぜられ、新知八十石・役料二十石を給された。戊辰戦争には新徴組半隊長として肘折口や小名部口に出陣した。明治3年(1870)鶴岡の郊外大宝寺村に新教屋敷を百三十七戸建設した時は、普請係を勤めた。明治5年(1872)戊辰戦争に関する史料の取り調べを命ぜられ、各隊の日記などを収集する。公職を退いた後に本格的な調査・編集に入り、四年の歳月を費やして明治28年(1895)に『戊辰庄内戦争録』四巻の刊行をみた。明治7年(1874)から庄内各地の戸長を転々とした後、同10年に朝暘学校世話孫となり、同二十年まで在職した。享年80歳。長男の友弥は、警視庁書記などを勤め、『日独史』の編纂にも携わった。(三百藩家臣人名・庄内人名事典より)
墓碑銘は「和田東蔵墓」
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和田東蔵墓所 |

和田東蔵の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
田辺重剛 |
次男 |
明治期〜大正期の事業家 |
山形県鶴岡市 |
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米津政易 |
主君 |
江戸時代後期の大名、出羽長瀞藩一万千石米津家第3代 |
東京都港区 |
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米津政明 |
主君 |
江戸時代後期の大名、出羽長瀞藩一万千石米津家第4代 |
東京都港区 |
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和田東蔵 |
養父 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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和田光観 |
兄 |
幕末の庄内藩士、維新後官吏 |
山形県鶴岡市 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
朝暘学校跡碑 |
山形県鶴岡市馬場町9-1 |
世話孫 |

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