名前 |
鬼頭忠純 |
よみ |
きとうただすみ |
生年 |
文政四年(一七九六) |
没年 |
文久三年四月十六日(一八六三) |
場所 |
名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士 |
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略歴 |
通称忠次郎。字は子純。艮庵と号す。家は代々藩の小吏をつとめた。才識人にすぐれ、天保九年十八歳で京都藩邸の書記となる。同十二年、公務のかたわら儒者春日潜庵の門に入り、同門の河野静山、恒川唯江、岡田真吾、中路延年らと交遊した。特に中路はもと尾張藩士で近衛家付人、やがて薩摩系の志士となるが、これと親しかった。帰藩後側用人田宮如雲によって登用されたものの、安政五年藩主慶勝の退隠、田宮の失脚とともに散職となった。新藩主茂徳の親幕府藩政のもとでは、間島冬道、尾崎忠征らと尊王攘夷を唱え、時勢の挽回を策した。当時蟄居中の田宮如雲は、親戚旧故といえど面接を避けたが、ただ忠純のみ引見して密かに国事を談じたという。文久二年八月、中路延年が薩摩藩の意を承け名古屋へ運動に来た際は、田宮や高田快清にその来旨を告げて周旋した。中路と同道出京をはかるが、これは藩内の反対派にさえぎられた。同年九月慶勝が藩政に全面的に復帰すると、田宮の復職をはじめ、いわゆる金鉄組の士が藩政権に進出し、忠純もまた十一月、譜代席、徒格儒者仰せ付けられた。翌三年正月、慶勝にしたがい上京。中路らと政界工作に奔走する。四月師を煩って帰国。潜庵門下の傑出といわれた才幹も再起あたわず、同月十六日志なかばに世を去った。享年四十三歳。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は側面に「艮庵居士墓」。
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鬼頭忠純の墓 |

鬼頭忠純戒名 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
中路延年 |
親交 |
幕末の尾張藩士 |
情報求む |
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岡田真吾 |
親交 |
幕末〜明治時代の宇都宮藩士、官吏 |
栃木家宇都宮市 |
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尾崎忠征 |
同志 |
幕末の尾張藩士 |
京都市左京区 |
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春日潜庵 |
師 |
幕末の陽明学者、安政の大獄で永押込、維新後奈良県知事 |
京都市右京区 |
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河野静山 |
親交 |
江戸時代後期の儒者 |
情報求む |
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高田快清 |
同志 |
幕末の犬山藩士 |
名古屋市千種区
見あたらず 情報求む |
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田宮如雲 |
同志 |
江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 |
名古屋市昭和区 |
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恒川唯江 |
親交 |
江戸時代後期の近江大溝藩士、漢学者 |
東京都港区 |
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徳川慶勝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 |
愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓 |
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間島冬道 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後政治家、宮内省御歌所寄人、明治六歌仙の一人 |
東京都台東区 |
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ゆかりの地リンク
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