飯田忠彦 | |||||||||||
生没年 | 寛政10年〜万延1年 | ||||||||||
1799〜1860 | |||||||||||
職業 | 歴史家 | ||||||||||
都道府県 | 山口県 | ||||||||||
市町村 | 徳山市(現 周南市) | ||||||||||
場所 | 二番町 | ||||||||||
飯田忠彦は徳山藩士生田十蔵兼門の二男として徳山城下に生まれています。忠彦はのち河内国八尾の豪族飯村忠直の女婿となり、有栖川家に仕え「大日本史」の未記述部分の歴史書(明徳から嘉永4年まで)の「野史」291巻を編述しています。最後は桜田門外の変への関与を疑われ、抗議の割腹自殺を遂げました。 歴史愛好家にとってよく知られている飯田忠彦も、地元での知名度は生誕地碑の状態を見れば何となく分かりますね。徳山動物園の中に大正時代に建てられた立派な記念碑があります。こちらは必見です。 記念碑の写真を見直して気になったのですが、記念碑では生年が寛政11年、市が建てた説明板には寛政17年、岐山地区コミュニティー推進協議会が建てた説明板には寛政10年、生誕地碑横にある説明板も寛政10年とバラバラです。本を読んでも寛政10年と11年が混在しています。 |
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生誕地の全景 |