本多ほんだ日生にっしょう
生没年 慶応3年(1867)〜昭和6年(1931) 分類 僧侶

略歴
 姫路藩士国友堅次郎の次男として生まれる。幼名は長次。実家の菩提寺であった妙善寺の嗣子となる。明治12年得度して、聖応と改名。明治19年上京して哲学館に学び、若干23歳にして日蓮宗妙満寺派の教育部長となる。急進的な宗門改革を実行しようとしたため、明治25年宗門を一時追放される。顕本法華宗義布教所を各地に開き、明治35年に品川妙国寺住職。日蓮宗妙満寺派の派名を廃して、顕本法華宗の公称が認められ、明治38年には39歳にして管長となる。その後も管長に選ばれ、21年にわたり管長の地位にあった。その他、天晴会、地明会を組織して門下統合、布教につくした。著書には「大蔵経要義」十一巻など多数ある。

場所 山梨県 南巨摩郡身延町 久遠寺
 
 




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