平田靭負ひらたゆきえ
生没年 宝永元年(1704)〜宝暦5年(1755) 分類 薩摩藩家老

略歴
 鹿児島城下上之平に生まれる。名は宗武・正輔、通称は平蔵・靱負など。元文2年物頭となって江戸藩邸に住み、用人、大目付を経て家老に進んだ。宝暦3年藩主島津重年が幕府から木曾川治水工事を命じられると、翌年靱負は総奉行となり、副奉行伊集院十蔵らちともに美濃国に赴き工事監督にあたる。工事現場は古くから氾濫の難所であったため、予定を大幅に超えることになったが、苦難の末に工事を完成させた。しかし51人の自殺者、33人の病死者を出し,40万両にものぼる莫大な出費をだした責任をとって、工事検見終了の月末に自刃した。

場所 鹿児島県 鹿児島市 平田公園
 
 

場所 鹿児島県 鹿児島市 建設センター
 




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