新田義貞にった よしさだ
生没年 正安3年(1301)〜建武5/延元3年(1338) 分類 南北朝時代の武将

略歴
 新田朝氏(朝兼)の長子。小太郎を称する。家督を継ぎ、上野国新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。正慶1=元弘2(1332)年、幕府の動員令に応じ楠木正成攻めに参加するが、病気を理由に中途で帰国した。翌年、執権北条氏の守護国で得宗被官の紀親連を捕らえ、黒沼入道を斬り幕府に公然と反抗。幕府の機先を制して挙兵武蔵に進撃した。薪田荘の世良田で蜂起した足利尊氏の子千寿王と合流し、分倍河原の戦いで北条軍を撃破。さらに稲村ケ崎を突破し鎌倉をも攻め落とし鎌倉幕府を滅亡させた。後醍醐天皇の建武の新政で重用され越後・上野の国司、左近衛中将に任ぜられる。建武2年、足利尊氏が新政権に背き、南北朝内乱が開始されると、南朝方の侍大将として各地を転戦。恒良親王を擁して越前金ヶ崎城、黒丸城などにこもる。越前守護斯波高経との藤島の戦いで討ち死にした。
場所 東京都 府中市 分倍河原駅


 




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