豊臣秀吉とよとみ ひでよし
生没年 天文6年(1537)〜慶長3年(1598) 分類 戦国武将・関白

略歴
 尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓で織田信秀の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。織田信長に足軽としてつかえ、ねねを娶り木下藤吉郎秀吉と名乗った。清洲城普請、墨俣築墨、浅井・朝倉両氏との戦いで功をたて、羽柴姓と筑前守の受領名を給り、天正元年近江長浜城主となる。備中高松城に毛利軍と対陣中に本能寺の変が起こり、山崎の戦いで明智光秀を討って信長の統一事業を継承。さらに柴田勝家をやぶり、徳川家康を臣従させる。大坂城を拠点として、西国の大名を降伏させ、天正18年小田原北条氏を滅ぼし全国を統一。この間関白・太政大臣となり豊臣姓を名のる。天正19年太閤。文禄元年と慶長2年の2度朝鮮に出兵するが失敗。太閤検地、刀狩りなどを実施し兵農分離を押し進め、近世封建社会の基礎を確立した。
場所 愛知県 名古屋市中村区 常泉寺


 

 

場所 愛知県名古屋市中村区 中村公園


 




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