土屋丑蔵つちや うしぞう
生没年 安永10年(1781)〜文化8年(1811) 分類 庄内藩士

略歴
庄内藩士黒谷太四郎(吉行)の次男として鶴岡家中新町に生れる。文化2年土屋才蔵の婿養子となる。才蔵の養父久右衛門には妾腹の子万次郎と虎松の兄弟がいた。万次郎は放蕩の末、享和3年自宅の座敷牢に入れられたが、兄に同情した虎松に助けられ脱出し共に江戸に出奔したが、路銀尽きて困窮したため、万次郎は金策のためひそかに庄内に戻ったところを見付けられ、丑蔵等に取り押さえられ殺害された。虎松はこれを遺恨として仇討ちを決意。丑蔵と決闘し、万次郎の墓前で刺しちがえて死去した。昭和11年に小説家長谷川伸によって戯曲『総穏寺の仇撃』として書かれ、新国劇によって初演され、人気を博した。
場所 山形県 鶴岡市 総隠寺


 




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