高橋是清たかはしこれきよ
生没年 嘉永7年(1854)〜昭和11(1936) 分類 政治家・財政家

略歴
 江戸で幕府御用絵師をしていた川村家に生まれ、仙台藩足軽の高橋家に養子となる。慶応3年から約1年間藩留学生として渡米したが、現地で下僕に売られるなどの苦労を経験した。帰国後、大学南校(東京大学の前身)の英語教師になるが辞職、その後通訳、翻訳業などを経て、明治14年農商務省に入省、明治23年には初代特許局長となる。明治25年日銀に入り、一時横浜正金銀行に移ったが、再び日銀にもどり副総裁、明治38年貴族院議員、明治40年男爵、明治44年日銀総裁となる。大正2年第1次山本内閣の蔵相、大正7年原内閣の蔵相、政友会に属し、公債増発政策を実施。大正9年子爵。大正10年原敬暗殺のあと首相兼蔵相となり政友会総裁。大正13年爵位を返上し衆議院議員に当選、第1次加藤内閣の農商務相。大正14引退するが昭和2年田中義一内閣の成立すると懇請されて3度目の蔵相に就任。金融恐慌では支払猶予緊急勅令を施行。金融恐慌鎮静化の見通しが立つと在職42日で辞職した。昭和6年犬養内閣で4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止を実施し、次の斎藤内閣でも蔵相に就任し、全額日銀引受の公債を発行。昭和9年7月に成立した岡田内閣でも、病に倒れた藤井真信の後任として11月に蔵相に就任。軍部と激しく対立し、昭和11年度予算編成で軍部を強烈に批判。同年の2・26事件において私邸で暗殺された。
場所 東京都 港区 高橋是清記念公園


 

 




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