重光葵しげみつまもる
生没年 明治20年(1887)〜昭和32年(1957) 分類 外交官・政治家

略歴
 大分県生まれ。明治44年東大法料を卒業し外務省に入る。昭和6年8月中国公使となったが、昭和7年4月の上海爆弾事件で負傷、右脚を失った。昭和8年5月から約3年間外務次官として対中国政策樹立の中心人物として活躍。昭和11年ソ連大使となり、昭和13年7月に起こった張鼓峰事件の停戦協定を成立。太平洋戦争勃発直後、昭和17年1月から汪兆銘政権下の中国大使。翌年成立した東条内閣の外相、次の小磯内閣にも留任し、戦時外交を推進した。敗戦後に成立した東久邇宮内閣の外相となり、首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。A戦犯容疑者として逮捕され禁固7年。昭和27年追放解除後、改進党の総裁。昭和29年日本民主党結成に参加し副総裁。鳩山内閣の副総理・外相として、日ソ国交回復、国連加盟を実現した。最初の日本代表として国連総会で演説している。
場所 大分県 東国東郡安岐町 山渓偉人館


 




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