薫的 | |||||||||||||||||||
生没年 | 寛永2年(1625)〜寛文11年(1671) | 分類 | 僧侶 | ||||||||||||||||
略歴 |
俗名は康松又右衛門。幡多郡中村崩岸(現在の中村市)に生まれる。少年のころ出家して香美郡楠目村(土佐山田町)の予岳寺を経て長宗我部国親の菩提寺である城北江ノ口の瑞応寺に移る。2代藩主山内忠義が死去した際、山内氏の菩提寺真如寺の住職了谷がつけた戒名が粗末であると異議をとなえた。藩の慰留もきかなかったため投獄され、7年後食をたって座禅のまま47歳で絶命した。薫的の行動は山内氏の治世を快しとしない土佐の人びとに強く影響し、以後薫的神社に祀られ強い信仰を得るようになった。 | ||||||||||||||||||
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