加藤清正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生没年 | 永禄5年(1562)〜慶長16年(1611) | 分類 | 戦国武将・大名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴 |
豊臣秀吉と同じ尾張国愛智郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。その縁により幼少より秀吉の台所方に仕える。のち秀吉の直轄領の代官を務める。賤ケ岳の戦いに七本槍のひとりとして功名をあげる。天正16年肥後半国の領主となり、文禄・慶長の役で朝鮮に出兵し、漢陽(現在のソウル)を攻略、李朝の2王子を捕縛した。講和問題で講和派の石田三成らと対立し一時蟄居する。関ケ原の戦いでは徳川方につき、戦後肥後一国の領主となる。日本3大名城のひとつである熊本城の築城に着手し城下町の形成に努め、河川の改修等により多くの神田を築き、後世「加藤神社」に土木の神様として祭られた。徳川幕府成立後も豊臣家の存続を念願し、家康と豊臣秀頼の二条城会見にも従い、豊臣家を守るが、会見の帰途病死する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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