小栗忠順 | |||||||||||||||||||||||
生没年 | 文政10年(1827)〜慶応4年(1868) | 分類 | 幕臣 | ||||||||||||||||||||
略歴 |
小栗忠高の子。安政2年家督相続、同6年9月目付に登用され,日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察として渡米。同年11月外国奉行、文久2年6月勘定奉行、徳川慶喜、松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。元治1年勘定奉行、軍艦奉行に復職。元治2年再度罷免されたのち同年勘定奉行に再度復職。横須賀製鉄所の建設に着手、幕府の軍政開拓をはかり、軍事力の増強を推進する。大政奉還に反対し、江戸薩摩藩邸焼打ちを実行。戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦をすすめ遠ざけられた。慶応4年閏4月6日知行地の上野群馬郡で新政府軍に捕らえられ処刑された。 | ||||||||||||||||||||||
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